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IAEA ムハンマド・エルバラダイ講演を読む(4)

3月11日の大規模地震により、東北太平洋岸の多くの町が壊滅してしまいました。

この被害の多くは津波によるものであり、地震の揺れによる被害というのは、おそらくそれに比べれば非常に小さかったのではないでしょうか。

そして、それよりも、なによりも。地震より津波より、より深刻なものとなりつつあるのが「原発」です。

どういうめぐり合わせか、本稿でとりあげていたIAEAという団体も、これには深くかかわっているようです。

日本国中を恐怖とパニックに陥れたのは「東電」と「政府」ですが、その恐怖とパニックの裏の主役は「原子力保安院」なる団体のようです。

多くの人々はこの「原子力保安院」なる団体はいったい何者なのか?を知らなかったはずです。もちろん私もですが。

その後さまざまな情報から知ったことのひとつは、「原子力保安院はIAEAの日本でのカウンターパート(:相当するもの=協力者or出先機関)である」ということです。 

しかし、あのようにしどろもどろで棒読みて曖昧、誠実さや真実味が微塵も感じられない会見を見る限り、とてもこれまで読み進めてきたIAEAの理念や輝きとはまったく無縁の団体としか思えないわけです。

もしも 「原子力保安院=IAEAの日本でのカウンターパート」が真実であるとするならば、本稿の読み進め方もひっきょう変わらざるを得なくなります。

そういうわけで、本稿は少し前置きが長くなってゆくことになります。なぜならば、そういった目で眺め始めると、このムハンマド・エルバラダイ氏の講演の端々に、腐敗と堕落の兆しがどことなく見えてくるからです。

シェークスピアがなんだってえ?宗教だって言うほど単純じゃあありませんぜえ、だんな。

続く

----------- IAEA ムハンマド・エルバラダイ講演(4)-----------

みなさん

進化や知性の限界あるいは天地創造を信ずるどうかは別として、はっきりしていることがあります。それは、人類はその歴史の始めから、宗教、イデオロギー、民族その他を口実にして互いに戦争を続け、そしてその保有する最も威力のある兵器を進んで放棄する者は誰もいなかったということです。今日私たちは、近代テクノロジーは互いに共有できるものであるということを認めていますが、反面私たちの価値観は共有できるものであることを、その根底において認めようとはしていません。

私はエジプト出身のイスラム教徒で、カイロとニューヨークで学び、現在はウィーンに住んでいます。私の妻と私は、半年を北で過ごし、半年を南で過ごしています。そのなかで私たちはまず、人々の独自の慣習と互いに持ちうる共通の価値観を経験したのです。

シェークスピアは「ベニスの商人」のなかで家族の一人一人にこう言います。「あなたが私を傷つければ血の出ないことはないでしょう。あなたが私をくすぐれば笑わないことはないでしょう。あなたが私に毒をもれば死なないことはないでしょう。あなたが私に悪さをすれば仕返しをうけないことはないでしょう。」

そして私たちは忘れてはいないでしょうか?
寛容さなくして生まれた宗教はなく、人間の尊厳を尊ばない宗教もないということを。

ユダヤ教では、人間という存在の美しさと喜びを尊びます。
キリスト教では、隣人愛を説きます。
イスラム教では、不当に人を殺すことは全ての人を殺すことに等しいと主張します。
ヒンズー教では、全宇宙がひとつの家族であると考えます。
仏教では、全ての存在を価値あるものとして祝福することを説きます。

寛容さと人間の尊厳を機軸とした社会というものは理想に過ぎず、国境や人種そしてイデオロギーこそが喫緊の問題なのだ、と言う人々がいます。そのような人々に私はこう言います。これは理想主義ではなくもっと現実的な主張であるなぜなら私たちは過去の歴史において戦争が紛争を解決したことはほとんどなかったことを学んできたのだからと。力によって新たな傷を生むことはありますが、古い傷を癒すことはできないのです。

 

Ladies and Gentlemen.
Whether one believes in evolution, intelligent design, or Divine Creation, one thing is certain. Since the beginning of history, human beings have been at war with each other, under the pretext of religion, ideology, ethnicity and other reasons. And no civilization has ever willingly given up its most powerful weapons. We seem to agree today that we can share modern technology, but we still refuse to acknowledge that our values – at their very core – are shared values.

I am an Egyptian Muslim, educated in Cairo and New York, and now living in Vienna. My wife and I have spent half our lives in the North, half in the South. And we have experienced first hand the unique nature of the human family and the common values we all share.

Shakespeare speaks of every single member of that family in The Merchant of Venice, when he asks: "If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die? And if you wrong us, shall we not revenge?"

And lest we forget:
There is no religion that was founded on intolerance – and no religion that does not value the sanctity of human life.
Judaism asks that we value the beauty and joy of human existence.
Christianity says we should treat our neighbours as we would be treated.
Islam declares that killing one person unjustly is the same as killing all of humanity.
Hinduism recognizes the entire universe as one family.
Buddhism calls on us to cherish the oneness of all creation.

Some would say that it is too idealistic to believe in a society based on tolerance and the sanctity of human life, where borders, nationalities and ideologies are of marginal importance. To those I say, this is not idealism, but rather realism, because history has taught us that war rarely resolves our differences. Force does not heal old wounds; it opens new ones.
 

 

 


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